trackback to 9.11


9・11にトラバック

●9・11の朝はどこで何をしていたか(1)

あの朝は、コスタリカの首都・サンホセの街を歩いていた。
マイアミ経由・ロサンゼルス行の帰国便が9月12日で、日本行きの日程を少し延ばしたかったので、直接アメリカン航空(AA)の支社受付まで来てくれと電話で言われた為だった。

前置きとして少しこの時の事について記す。
地名やこまかなもの等いまではあやふやになっている。
そこで今現在覚えていることの記憶だけをたよりに記してみることにする。

これは私個人が試みとしてやってみようと思うことなので、もし今現在これを読んでいてくれる方がいるとしたら、ここは端折って、(2)へ先に進んでいただいて構わない。

詳細な数値や名称はほとんど忘れているのに感覚は意外にもいろんな事を覚えているものだ。特に匂いや音といったものを。

木製の扉を開けて、道路に面したホテルの玄関を出ると歩道もなにもないいきなり車道に出る。そこをひっきりなしに車が行き来していた。レストランのある向こう側に行きたいのだが渡れず、車を制して飛び出して渡る。何時ぐらいだったろうか。パルケ・エスパーニャ(イスパニア公園)が日を浴びないでまだ大部分を影が覆っているので、まだ早朝には違いない。そんな場面を思い出だすと、にわかに肌寒くなった。

AA社の住所を聞いただけでそこまでの一番いい行き方がわからない。人に聞くのも億劫だったので歩くことにしたのだ。天井が高くゴージャスだったゴキブリ天国のホテル・アストリアはアベニダ7番通、カジョ7-9番の一画。そこから、区画番号を忘れているが、中心街の外れまで、どれぐらい歩いただろうか、3キロかその辺だった。銀行がまだ開いていなくて人が列を作っている。この日は月曜日だったかな?別の街か、2日前に振り出しのここ首都へ戻って来た、これは昨日の早朝に目にした光景かもしれない。自分の手帳を後で見たとしてもそこまで記されていないだろう。

前後関係の情報が細切れで正しい時間経過を離れ、ただ目にした光景しか蘇ってこない。しかも断片的に。

知人ウォルテルの奥さんミレイディのお店サンホセ・ダイナーズで朝食を食べようとして、メルカド・セントロ(中央市場)へ向かっていたと思う。前日に用事は済ませていたので散歩がてらブラブラした足取りだったが市場へそのまま向かっていたはずだ。歩き始めてそれ程経たない頃だったろう、ショーウィンド・ケースのテレビに人がたかっていて、歩きながらその彼らの頭越しにそのテレビ画像を目にした。別に気にもならなかった。洋上に、多分島だろう、その映像をカメラはかなり高い上空から撮影している。よく見えないがそこから黒煙が立ち上がっていた。火山噴火ではないのかとその時思っただけだった。音は何も聞こえない。人々の話し声も。ここから今推測して人々はその画像に食いつくように見入っていたのだろう。いや、そうではないかもしれない。自分がそのまま通り過ぎるほどでそこは静かな光景だったことは覚えている。

□ここで、もし最初の第一機、AA機11便が管制塔モニターから消え激突した時刻を08:46と覚えていれば、先ほどの早朝だと言った時間がある程度は推測できる。ボストン-日本間の時差が14時間。米国のサマータイム制でプラス1時間だ。つまりアメリカ東部地域との時差1時間(+1)を考慮し、コスタリカ(日本間時差はサマータイム制なしの15時間)では時刻的に私がホテルを出たのが6時46分前後のことだと思う。その時刻以降に報道が伝わり、中継画像がテレビ放映されてたのがその時刻の後という事になる。そして自分が最初に目にした映像はまだ二機目の接近すら感じさせないものだったはずだ。しかしそんなことがその後すぐに続いて起こると予想できる人など誰もいない。

この後少し記憶がなくなっている。
いや、一つの情景を一度思い出すとそこを手がかりに細かなことまで思い出し時間が経てばまた見えてくるものだ。そう、ブランカで不思議な出会いがあり、そこでお世話になったそのウォルテル氏に伝言を残そうと市場の中にある店へ最後に立ち寄ったのだ。彼女の店で食事はしなかった。そこを後にして、バンコ・デ・コスタリカ(コスタリカ銀行)へ一度寄ったはずだ。どこの教会だったかは今特定できないが、向かう先の、歩く真正面に教会が見え、その入り口や教会の周りをホームレスだと思うが地べたに横たわり倒れこんだような人々で溢れている。ここは教会の多い敬虔なカソリックの国であると共に、こんな光景も街のいたるところで見かけた。だから教会といっても何処なのかその場面のつながり、前後関係が怪しい。この時、覚えているのは、そんな都市の荒んだ一面の光景を見ながらちらりと頭上高くに懸かった十字架を見上げたという事。その光景と十字架の視覚的な像という両者の、一瞬にせよ連続した時間的なつながりは確かに正しいものだ。

小児科病棟という大きな建物と、それを特定させた看板が印象的だったが、オスピタル・サン-ファン・デ・ディオス(サン-ファン・デ・ディオス病院)の脇を通り、あとはそのままこのアベニダ・セントラル(中央通)を西へひたすら歩くだけだった。途中一気に気温も上がり暑さのために歩かずにバスに乗ろうかと一度だけ思ったことを覚えている。

地図にレオン・コルテスのモニュメントの所在地が記されていたことを今思い出している。
この中央通は西へ進めばこの記念碑に突き当たる。そんなことは覚えているがそのモニュメント自体はどんなものだったか思い出せない。そこはパルケ・メトロポリタノ(メトロポリタン公園)の敷地内。ここから一般高速道3号線がファン・サンタマリア(ファン・サンタマリア国際空港)に向かい走っている。その続く先を見遣り立った場所から道路右側に立つAA社の建物を見つける。

日程の変更料金をUSドルで$40支払わなければならないらしいが必要な出費だった。これは先日電話した時点での話だ。社内へ入り受付で来意を述べ、先日応対してくれたヒエロ嬢の名前と自分の名前を告げる。ここでその予定の便が事故のために(航空機の”トラブルがあって”)現在使用できない事を相手から告げられた。復旧はいつになるのか聞くと、一言、”いつ”かは分からないと言う。

ここでやり取りした正確な言葉をほとんど覚えていない。相手の顔や服装、声のトーンははっきりと覚えているが、、その発話の内容以外、相手の表情等をここまでは全く自分は読み取ってはいないことに今思い至る。日取りも分からずにただここで滞在を延ばして待っていなければならないのかと直接問うと、その一瞬相手はきつい目になって(この時はじめて相手の目を今に至り思い出すことができる)相手は目だけ見上げて、また再び目を伏せ言いよどんでしまう。何か事情があり、理解・協力を求めている目だ。今その情景を目に浮かべると、それを意に返さない相手への一瞬ではあったが、非難とも、怒りともとれるもの。でも事件の経緯をそこに重ねれば、悲壮な、現在は無抵抗なものをもそこに感じる。私は当然何も知らず、憤慨するほどは急を要するものでもなかったし、ただ当惑していただけだった。もともと日本行便の予定を延期したかっただけなのだ。それを予定できる日で手配してもらえないかとお願いすると、変更料の規定をお伝えるのはつらいことなのだがという相手に、問題はないので日程を組んでほしいと頼んだ。

□USドル$40はコスタリカ・コロンに直してだいたい13,200コロン。今、日本円にしていくらだろう?1ドルはだいたい当時320コロンだ。市場内にあった散髪もカットだけで300円はかからなかった。ブリット社製・コーヒー(日本で340gのものが通信販売されていたのを見たことがあるが、同じ製品でそれよりも大きいサイズ。スーパーメルカド -ごく普通のスーパーの事- で売っている家庭用600-500g)が、赤-浅煎・黒-深煎をエレディアで二つ買った時の値が2,150コロンだった。ここから計算してつまり一袋400円もしないことになる。

一応3日後の14日付フライトを予約してくれた。フライトナンバーは、サンホセからマイアミまでがAA1700。マイアミからロスアンゼルス間がAA2160。この数値はよく覚えている。

□当日空港まで行き散々待たされた後その便は欠航となった。当地空港への着陸並びに運行許可が下りないのだ。ただし同チケットで出国希望日にあわせていつでも変更が可能であり、その前日に日程の連絡をしてくれるようにと言われた。

その後の経緯についてここでは記さないが、その14日から6日後の20日発の便へ変更することにし、結局11日からあと9日間をこの国に滞在することになった。 空路がだめならロサンゼルスまでは陸路だってあるさと考える。全くその通りである。一方で4日後に控えた独立記念日を待たずにこの国を去るのが惜しかったので、これはちょうどよいと思った。この日のことを思い出すと打楽器やトロンボーンの音が耳に残っているのは、昼下がり公園で小学生やマーチングバンドがその記念日にそなえ練習をしていたためだ。14日空港から戻り、15日にかけ独立記念日はエレディアで過ごすことにし、最後はプンタレナスの幸運の友人一家を再び訪ねようと決めた。

14日までを首都サンホセに滞在するつもりだった。一度バスに乗りホテルへ戻り、そこでテレビをじっと観て時折信じられないという風に首を振っているフロントの若主人からこの”9・11”の事を聞き初めて知った。何故そんなことが起こったのだと聞くと、彼はテロだと言った。向かいのレストランへ、行き交う車を制止して道路を渡って中へ入るとそこで初めて、居合わせた数人の街の人の歓声と共に、旅客機が高層タワー目掛けて突っ込むテレビ映像を目にした。14時を回っていた。レストランの席へ着く時に正面の壁に掛かる時計を見たので、その時14時を回っていた。その映像は繰り返し放映されているようで、居合わせている何人かの年配者はもうその画面を見ることもなく無反応になっていた。ホテルへ戻ってからこの時点ではじめて、自分はその今自分の置かれた状況、事件そのものについてではなく、自分の帰国の目処が立たないという理由、を理解した。

国並びに国民のコミュニケーションや生活に結びつく経済活動。だが一方でグローバル化した資本経済、あるいはその旗手である米国の象徴でもある世界貿易センタービル。その力の背景にある軍事力の象徴・国防総省の本部。未遂に終わったというホワイトハウスはそれらを統括する政治の中枢、国の頭脳・司令塔だ。象徴的なそれらが標的にされたこの事件は、その意図を明確に表明していた。その暴力のメッセージを捉え、映し、語る映像。世界で何が起こっているのかと思った。だがさして慌てていたわけではなく、そういう事も起こるのかとその程度に正直思っただけだった。しかし、自国がアメリカナイズされていくことにあからさまな嫌悪感を表すこの国の人たちとその意志を、国のあちこち、ささいなコト、モノの端々に感じてはいたが、街で聞いたジャンボ・ジェット機が突っ込み炎上、爆発する瞬間に、それが一部のものであれ歓声を上げた人々の反応の意味を、そのときにはすぐに理解はできなかった。世界は分裂している。人もそれぞれがその立場をもち、そこから世界を見る見方も違っている。自分もその分裂した世界の一方の側に立っている。そのことは良くわかっている。だが相手の、一方の側の情報は大抵は伝わらないものだ。なぜなら人は自分の住む側の世界からものごとを見ているからだ。単純なことながら。

自分はこの後インターネットカフェでロサンゼルスにいる友人に、訪問する日が変わり遅れる旨をメールで送った。350コロンを代価として。そしてゴマの入ったバゲット風のパンに、お前のためにトラディショナルなやり方でスライスしウェヴス(卵)付きで丸焼きにしてやったぞと言われたものを、アメリカン・コークとともに、1,625コロン支払った。

この事件のことを別に考えていたわけではない。この事件に関して自分の意識としては特に巻き込まれもせず無関係だったといえる。日本にいて感じる蚊帳の外的な国民性の不在観とは違う、アメリカ本土の合衆国からこんな離れた小さな国にいながらも、陸ではつながりその影響やこの国の直結している政治情勢のあおりを、オリエント(東洋人)という外国人旅行者としてその後に直接受けることになっても、やはりその時自分は傍観的にこの事件とは明らかに関心も意識すらも何もかもが無関係な位置にいたといえる。

これが自分の「9・11の朝はどこで何をしていたか」に対する答えだ。

●9・11の朝はどこで何をしていたか(2)

I love listening to people’s stories about where they were and what they were doing on the morning of 9/11, especially the stories from the ones who, through luck or fate, were there that day and made it out alive.

フィルム・メーカーのマイケル・ムーア監督は著書 Dude, where’s my country? の冒頭をこんな風に切り出している。もう少し正確に言うと、9月11日の朝に、いた場所と、していた事、それについての人々の物語を聞くことが好きだと言っている。

この本は大分前に読んだのだが、以前考えていたことを、あることをきっかけに、少し言葉にしないではいられない。ウェブ・ログ(略してブログ)のもつ機能の一つでトラック・バックというものがあり、その事について以前思っていたことを記そうと、上のような記事から書き始め、思い出すままにつらづらと書いていくうちについ長くなってしまった。氏の発したこの問いと、以前自分が考えていたといった事、そしてそのトラックバックというものが3つ、自分の中で不思議に結びついた。

もう少し氏の著書の話を見てみよう。氏は人々の物語の中でも、特に、偶然あるいは運命を通し、それをあの日あそこにいて、生に転換して切り抜けた人たちの物語を聞くのが好きだと言っている。そんなある男の例にふれながら氏自身はこう続ける。

My own 9/11 story wasn’t so close a call. I was asleep in Los Angeles.

自分自身の「9・11体験」はそんな九死に一生を得た物語ではないといい、あの朝はロサンゼルスにいて眠っていたとそう言う。事件の現場レベルで氏は当事者ではなかったという。その意味では自分も氏と同じように当事者ではない。そして同時に「その朝の物語」の語り手にはなり得ない。ただ、氏はその事件に巻き込まれた友人を失くしている。そして明確な意図、メッセージをもったあの攻撃の標的にされた国の国民であるということ。その立場で氏は自分の出来うる可能な限りをつくし自分なりの物語を形にした。その一つとしては自分が読んだ上記のタイトルや話題になった映画のことでもある。

あの事件からもう4年以上が経過し、事件に関して細部にわたる事実事項やその全容が究明されつつあり、最近再び各メディアでも再放送やら特別プログラムが組まれ、この三日間もそうであったが、ここ一年の間で私もそのいくつかを見た折である。

●関わりのトラバック(TB)と、楽しそうなディスパラテ(妄)

ある番組冒頭の導入として、一つのCMの中で、ニューヨークで活動していたある若手・日本人演出家がその時の街の状況を語っていた。街の人たちの反応が二つに割れたといい、こんな事は絶対にあってはならないこと、報復の連鎖でこんなことをいつまでもしていてもしょうがないじゃないか、その根本のところを解決しなくてはというもの。もう一つは絶対に敵を許してならない、即報復に出ろというもの。自分は絶対に前者であるといっていた。こんなことがあってはならないし、この悲惨な事件を忘れることなく語り伝えていかなくてはならない。自分がその歴史の事実の語り部としての使命を果たしていきたいと言っていた。

彼が語る姿に何か異質(他の同じそのことを語る人たちの中でという意味)なものを感じたのだが、彼は自分を語っていたのだなと思った。その事件のあった街にいたという自分を語っていたのだなと思った。でも演技まじりの身振り手振りとともにあんな方法、つまり、もしあの口調・語り方でなかったなら今言ったような印象を自分は持たなかっただろうかと問うてみた。あるいは語るのが彼じゃなかったらどうだろうかと。当時の証言を語る人(あるいはやっと語れるようになった人)達の中でこの人のコメントする様子は確かに異質で不自然なものであった。
自分が抱いたこの印象は何だろうかと思った。

この印象を廃して彼自身が語っていた言葉はどうか。この点に関して、内容だけではなく、そっくり話したその言葉自体を、30秒ほどではあるが、ここに正確に掲載するわけにはいかないのでコメントができない。内容だけから見れば、彼の「使命」(この言葉は使っている)がどんなものなのか注目したいと考えているし、その語り部として継続する時間の中でどのような発言や活動を今後していくのか見ていきたいと考えている。

そういう地味ではあるが基本的な作業をしなければ、一方的な自分の了見や先入観だけでもって裁断してしまうことになり、事実を捏造し捻じ曲げてしまうという過ちを犯す原因にもなるだろう。これはろくに読んでもいない・見てもいない・聞いてもいない本や、相手の話、考えに対して批判できないというのに同じである。またその過ちがその個人に与える影響を考えることなく、ろくに知りもしない相手に対して、ただ放言したいだけ、誹謗・中傷したいだけなら話はまったく別の次元・問題の事になるであろう。

ある議題・問題点に対して様々な、時に手厳しい意見を言う場合はあるだろう。しかしそういった点とは違う、その人の職業や性格など感情的になって攻撃する悪意をもった人間も世の中には大勢いる。ブログやインターネットというメディアはそういう場になりやすいし、そういう不特定多数、匿名に隠れた悪意をいちいち気にしている場合ではないが、悲しいことに実際には少なからずそういう人間がいることも事実である。そういう人間に対しては気にもしないし相手が何を言おうが自分は全く相手にはしない。なぜなら、そういった人間にとっては、決して話し合いを手段に、相互の意見交換、平和的理解が目的ではないのだから。勿論暴力に対しては法的範囲の中で防衛手段を講じとらざるを得ない場合はある。それが武力行使に結びついているかどうかはまた別の問題である。

しかし思うにむしろ善意の中に隠れた無知や言葉の暴力の方が、本人は無自覚なだけに一層始末が悪いのではないだろうか。こんな普段の人々の意識の中や日常に潜んでいるものが、正当性の衣を着けては自己主張し、その行き過ぎた行為に無自覚で、他人の領域にまではびこり出す場合、それを改めてほしい、やめてほしいと、その思い、抗議が伝わり理解されなければ、人は最終的にテロという行為・手段に打って出るのではないだろうか。その本質、問題点をことさら強調、浮き彫りにさせ、相手に突きつけるために。

ある国の大統領が「正義」を掲げて仕掛けた(あるいはいままで行使してきた)主義・主張や行為自体はこれによく似ている。それは当然ここで言うテロの標的にされるであろう。報復・復讐とは相手がしたことをそのままその相手にも与え同じ思い境遇に陥らせたいという「相互理解」の形を変え歪ませた方法の一つの謂いである。

だが、一部の人間(国際法廷で有罪を宣告されながら拒否権を発動した人間、その国家も含め)やテロリスト達と違って、人がそういった手段に訴えないのは法的拘束を受けているからではなく、人としてそこに歯止めを自分自身がかけているからである。今まで生きてきて培った人に対する意識が、極端にどちらか一方の側に傾かないようにバランスをとりながら、日々を精一杯送っているからである。その一人一人、個人個人の思いや境遇に考えが及び至れば、何をしていいか、何をしてはいけないのかが自ずから分かるだろう。つまり問題はこの意識が欠如した(またはあるつもりになって無知・無自覚になっている)ところにある。これはつまり個人の問題だということになる。

しかし今述べてきた「正義」を押し付ける尊大な無知・無自覚が集団の間で形成された場合、簡単にあらぬ方向へ暴走してゆく場合があることは歴史上各々の事実が証明している。それは普段の日常の中に起こる、取るに足らない、詰まらないものの中から発生しているのであることを肝に銘じたいと考えている。それはブログという一人のある個人の場でも十分起こりえることでもあるし、実際そういう場を何も知らないで立ち寄り不快な気持ちを抑えて後にしたことも何度かあった。このブログに関して言えば自分のサイトがそうならないように管理人の責任を果たしたいと考えている。

-「第3集後記(時事雑記)」2006-01-12 –

写真: Parroquia la Inmaculada Concepcion
聖母マリア様に因む『無原罪の御宿』教会(1797年建立)。エレディアの町の象徴。教会の写真を撮っていたら町の人たちが寄ってきて口々に写真を撮ってくれて(ここへ来てくれての意)ありがとうと言って去っていった。

2 Comments
  1. 語句補遺「妄」:編集部


    前回の記事 『 9・11にトラバック 』 で扱ったことについて、記事の内容とは直接関係ないがここで少し補足をしておく(この「語句補遺」も記事掲載時に書き下ろしたもの)。

    1 「国際法廷の有罪判決と拒否権行使 」

    国際司法裁判所が下した判決。独裁者ミロシェビッチと同じ有罪を宣告されたのは御コメ国第40代大統領ミスター・ハリウッド並びにその政権。その有罪判決に対してこの国は、5ヶ国のみに与えられ因習的に今なお残る特権力「拒否権」を行使。民主主義に則った国連の議決に対して、過去76回、専横的な一国の一存でもってこの権利を行使し続けている(2005年8月現在)。ちなみに特権乱用の上位者イギリス(2位)は32回。フランス18回。中国5回。ロシア2回(旧ソ連118回)。
    有罪は1979年から約10年間続いたニカラグアの内戦で、テロリストを支援し続けたことに対するもの。

    写真:無題 ゴヤ画/ Los Disparates (1820年頃)

    ニカラグアは、ソモサ政権下による軍事独裁政治を、コメ国支援の下、長年推し進めてきた。サディニスタ率いる反乱・革命勢力によって1979年にこの体制が転覆。合衆国自身もこれにより当地への発言・支配力を失う。独裁政権打倒後の自由な国勢も、ミスター・ハリウッド指揮下で「国際テロ撲滅キャンペーン」の標的にされ国土は破壊し尽くされた。お米国は対革命政権に対抗する名目で「コントラ」の総称で知られる武装勢力を「治安部隊」として組織、極秘裏にCIAをつかって支援し続け、民間人の虐殺等を黙認していたことが、人権擁護団体や教会組織、学者などによって明らかにされたもの。

    これは国益(またはアダム・スミスの言葉を借りれば「妄念」)を図るために弱小な他国への干渉や影響力を、軍事力を背景に保持し続けようとする構造の典型的な例だ。現在もニカラグアはその傷から立ち直っていない。アフガニスタンでタリバン政権の打倒を図って長期内戦、抵抗を続けていた国民・革命勢力が、それを果たし、民主的な政治への希望を自ら勝ち取った直後、自らも前線で戦っていたその英雄的指導者が暗殺されたということにも、その構造がオーバーラップしてくる。そう言えば平等(中立)な見地から人望も厚かった坂本竜馬さんも、フランスかぶれの人民主権という思想を実現させようと強く思っていた人だった。

    2 「グローバルな資本経済」=「新自由主義」

    グローバル資本主義、またはグローバリズムとも。「サイバー資本主義」と名づける人もいる。「新自由主義」についてはR.W.マクチェスニー氏の言を要約しておく。

    新自由主義は政治経済のパラダイムの事。これは、一部の私的利益集団が、社会生活を可能な限り支配、個人的利益の最大限増大化を許容・可能にする政策並びに政治手法の事。

    宣伝としての性格付け。
    私的起業と消費者の選択を奨励。個人責任と起業家精神に報酬、官僚的政策に対抗する自由市場政策としてはたらく。

    これが経済制度としてだけでなく、政治と文化の制度としても機能する前提として、非市場・非生産勢力への圧迫が条件となる。新自由主義が最もよく機能するには、形式的な選挙制民主主義の整備下で、同時に国民が、情報・アクセス・意思決定への意味ある参加に必要な公的討論の場から疎外されている時である( Neoliberalism and Global Order )。

    つまりこういう事だ。
    この言葉が示すのは、新しくかつクラシカルな自由思想に基づいた原理原則の体系の事。そこではアダム・スミスが守護聖人として信奉される。この教義の別名を「ワシントン・コンセンサス(合意)」という(Profit over People, by N. Chomsky)。

    でもその合意や意図を離れますます、金融システム自体が引き起こす「見えざる手」が国境を越え、加速度的に世界を不安定にしているのも事実だ。そんな中でも、お題目は、依然、価格の適正化を市場原理に委ねて(合意で操作しているわけではないという事のニュアンス化)、インフレに歯止めをかけ(一国をぶっ潰しておきながら再建、支援・援助をアピールしよう)、民営化(今タイムリーな話題、郵政民営化)を促進。それをよりグローバルな自由貿易と金融システムという前提のもとで行うという基本法則と、現在までの流れ、施政、妄念は変わってはいないだろう。それにプラスして、権力の所在・分布が明白であること。その利害関係の揺れによってただ形相が変容するという事に変わりはない。そしてその対象になるのはより脆弱な人々・社会・国であるということも。

    グローバル化、自由原理というと聞こえがいいのは確かだ。そしてその心地よい響きの中に上で言う一面があることも。自由主義という言葉からはそんなことに気づかされる。「勝ち」組や「負け」組という名前の付け方やその名称自体も、名称化によって、その問題自体に向けられる意識が完全に消去されるのはちょっと怖いな。それ(その名称)が、華やかなイメージを付された著名人(セレブ)や主要メディアを通して、トレンド的に浸透してゆけば、問題が何かあったとしても口をつぐむしかないだろう状況は、何処かの何時ぞやの事項に思い当たって寒気がするけど、今モードに乗って流行りモノを着込んだとてその寒気がなくなる訳ではなし。なんだか温かい御しるこが食べたくなった。- 2006年01月17日 –

  2. Pingback: moment edition | anonymous, but equipped as nothing

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