memento mori

雑記(音楽・美術) 2005-11-13, – the era of the renaissance –

いわゆる「十字軍の遠征」が最初に始まったのは1097年のこと。
以後2世紀間にもわたって、中東全域・ムスリム世界(「ムスリム」とはイスラム教徒のこと)を、「遠征」=侵略・和平・占領と入り乱れた争いの状態がこのイスラム教徒とフランク(ヨーロッパ人の総称)・キリスト教徒の間で繰り返されてゆきます。最終的には1291年、モスリムの指導者ハリール・アル・アシュラフがアッカの地を奪還した時点で、以後長い間、中東におけるこのフランク、つまりヨーロッパ人の存在は消滅します。

映画 『キングダム・オブ・ヘブン(Kingdom of Heaven)』(2005年製作) がこの時代の様子を描いています。
映画の時代はだいたい、ムスリムの既に伝説と化した英雄サラーフ・アッ=ディーン・ユースフ・ブン・アイユーブ(実に長ったらしい)いわゆるサラディン(1137-1193)と、サラディンの宿敵かつエルサレム王のボードゥワン四世(仮面をかぶっていた王)が1185年に病で若くして没し、これを期に和平・共存の均衡が破れ、両者全面対決に陥り、サラディンが猛攻を開始、拠点都市アッカ、ヤッファ、ハイファ、シドン、アスカロン、ベイルートを次々に陥落させ、1187年10月2日についに聖都エルサレムをフランクの手から奪いとるまでを描いています。

勿論この2世紀の間はキリスト教とイスラム教という2勢力の対立だけが続いていたわけではありません。
これについては記しませんが、「十字軍遠征」の2世紀の間にこのムスリム世界を通じてヨーロッパ世界には様々なものがもたらされました。
ヨーロッパ文明の源流とされる古代ギリシアの遺産は、翻訳によってそれを保存していたこのイスラム世界からすべて得たものです。医学・天文学・数学・建築学・産業技術全般等も、交易も非常にさかんだったために航海術や世界地図もこの世界を介してもたらされました。もしこれがなければあのコロンブスの西洋史的「偉業」もなかったわけです。

西洋にもたらされたものはこれらばかりではなく、例えば「十字軍遠征」の野望は、農産物以外の生物分布も変えてしまうほどに大規模でかつ長期的なものでした。大規模な移民の移動や交易の拡大も15世紀にはユーラシア全域に達し大航海時代を経て大陸間をも結びます。
しかし、この十字軍の遠征はちょうどアジアとヨーロッパの狭間で行われこの戦い・攻防戦は両文化圏を結びつける結果になりました。そしてこの狭間でヨーロッパに大量にもたらされたもの、そのひとつにクマネズミがいました。

何、ネズミだってと思うかもしれませんが、ネズミを馬鹿にしてはいけません。
そのネズミ達の驚異的な繁殖力に加え、環境に対する適応能力の高さも、アジアでは豊穣をもたらす神として崇められていたことによく物語られています。
ですがもともと生息していなかったこのげっ歯類のネズミが西洋では悪魔の象徴・闇からの使い、死のイメージを付されていきます。それはいうまでもなくペストという疫病がもたらした「死」の背景とイメージが原因だからです。

クマネズミが介したペスト菌がヨーロッパ中に蔓延し、「黒死病」として猛威をふるいます。 「十字軍遠征」がヨーロッパでのペスト蔓延の直接的な原因である証拠はありませんがその土壌を作ったことは間違いありません。彼らネズミがもしこの西方の全土に生息地を移動・拡散して来なければこの疫病もヨーロッパに広がることはなかったでしょう。記録ではこの「黒死病」が1347年に初めてアジアからもたらされ3年間でヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったといいます。

ペスト(正確には「腺ペスト」)は、もともとはげっ歯類にかかる病気で、雲南省(中国・南西部)とアフリカ東部域固有の風土病だったものです。ご存知のようにノミを媒介して人間に感染してゆきます。このペスト菌に感染したネズミの血を吸ったノミが媒体、つまりこの病原菌の人間への運び役となります。やがて多くの場合、人間から人間へと感染経路を変えてゆきます。これは、感染者が肺炎を併発した時に、肺もこの病原菌に蝕まれ(「肺ペスト」)、今度は空気を伝って周りの人々へ次々に伝染してゆくからです。

この「疫病」は、十字軍遠征期のみならず、中東地域でその後に起ったモンゴル帝国の拡大や移動により、1350年代には中国全域にまで達して拡散、さらに交易の道シルクロードに沿って西方地域へと伝播してゆきます。記録では既に1346年にはペスト菌は黒海地域(西洋とアジアの接点コンスタンティノープルがある)にまで達しています。これがイスラム商人により南西アジア、エジプト、アフリカ北部へと運ばれ、そしてイタリア(ジェノバ、ベニス等)の商人によってイタリア全土に拡散し伝染、そしてヨーロッパ北部や西部に急速に広まってゆき「黒死病」と呼ばれるに至ります。

エドガー・アラン・ポー著作の 『King Pest(ペスト王)』はこの死の町の惨状を題材にしたものですし、この小説が舞台にした「死の町」と同時期に書かれたボッカチオ作の『デカメロン』 は1348年のイタリアでペストが流行したときに材を取った小説です。
これはフィレンツェを逃れ男3人と女7人の貴族が山間の館に集まって,一日一人一話を10日間興じた計100話の短編集で、その館の中で様々な話に花を咲かせ饗宴を演じています。そんな貴族調な語り物も一歩屋敷の扉を開け外へ出ればペストによる死の町の現実が背景にあったわけなのです。

このネズミのアジア地域からヨーロッパへの移動・生息域の拡大、そしてネズミが結果的に「黒死病」をもたらしヨーロッパを死で覆い尽くしたということは、実は西洋美術史上本来なら特筆すべきもののはずなのです。

この頃中世期独特の「死」の位相を絵画や彫刻に見ることもできます。
身近なところでは墓石等に死の意匠をこらしたものが多く散見されます。例えば石棺のふたに朽ちゆくからだや、身体にたかる虫や生物を彫刻にあしらったりと。
その反対に生にたいして一時を謳歌する放縦な考え方や生活スタイルが流行りました。それらがさらに生と死に関する人間精神を深めます。

それは例えばこの時期、有名なラテン語の言葉 carpe diem (”カペ・ディエム”/ carpe diem, quam minimum credula postero から来る。意味は「現在を楽しめ。できるだけ少く未来に信頼せよ」。ロビン・ウィリアム氏の主演映画 『今を生きる』 でも引用される言葉。映画の原題は 『Dead Poets Society』)や、逆説的に同じ意味の memento mori (”メメント・モーリ” 「死するということを刻め」)という、両義、つまり生と死に関する言葉を生んでいるのは象徴的です。あのハムレットをモデルにした彫刻や絵画に彼が髑髏を手にしているモチーフがよく描かれていたり、『神曲』に登場するダンテの机上に頭骨(このイメージはゲーテ著『ファウスト』で定着。ラ・ディビナ・コメディアにはハムレット劇同様にそういう場面は登場しません)が置かれているのもこの言葉を引用するためです。

あまりに身近にあった死とその恐怖が、逆に生に対して省察を加えることになり、ひいては人間そのものへの洞察を促し、死を通しすべてを見ていたこの時期に「ヨーロッパ・ルネッサンス」の精神が生まれてゆきます。近代ヨーロッパ精神の萌芽です。ここから生まれた芸術や作品の数々をここで敢えて挙げるまでもないでしょう。このルネッサンスを生み出した原動力、それは実は意外にも、アジアの草原地帯から都市環境に自らを適応させ、その人間の生活が廃してきた地下の世界、ドブの中を這い回り生きてきた小さなネズミがつくり出したものだったのです。ヨーロッパの世界史を塗り潰し、人間の精神の復活を促したネズミは我々の文明史の1ページを立派に飾る存在なのです。

どうですか?少しはネズミに対する見方が変わりましたか?
自分の家の屋根裏で今日もカサカサ音がしたら次には何を企んでいるのだと、少しはゴマをすって(チーズをスルことの方がよりいいでしょう)その物音にお伺いを立ててみてはいかがでしょう?

2 Comments
  1. 語句補遺1「クマネズミ」:編集部

    よく似ていてほとんど見分けがつきませんが、「ドブネズミ」ともよく混同されます。両者とも世界的分布を見せる「家ネズミ」の1種ですが(他に「ハツカネズミ」等)別の仲間。
    手のひら(肉球)に滑り止めのひだがあり壁なども難なく自在に登ってしまいます。一方ドブネズミはあまり登る事に関して得意ではありません。屋根裏で見かけたり、都心でドブネズミを駆逐しながら増殖中、お騒がせ・問題化しているのはこの「クマネズミ」です。

    意外にもネズミ達はきれい好きです。生息場所がバラエティーに富むため、ドブなどにも平気。住むところが住むところだけにやはり病気には彼等だってかかりたくはありませんよね。からだをきれいにするため四六時中毛づくろいをしています。毛のよごれを落として保温・通気性を高め、舐めてそこを自然に蒸発・気化させる事で体温調整をはかります。彼ら汗はかかないのです。だから汚れやからだの汚さで言えば人間の方が高いといえます。

  2. 語句補遺2「King Pest(ペスト王)」:編集部

    舞台は13世紀、エドワードⅢの治世、「騎士道華やかなりし時代」であるという。スクーナー商船の水夫2人が、テムズ河から碇泊してロンドンは聖アンドルーズ教区のとある酒場で酩酊から我に返る。この界隈いいやロンドンの街中が惨状を極めていた。王の命により特に聖アンドルー寺院周辺は「禁制の地」とされていた。その一帯の無人になった人家や酒場を彼らは飲み干し俳諧していた。そして細い小路の、階段を奥へ奥へとひた走りに走ったその先、葬儀屋の店で世にも異様な一族に出会う。尋常ならぬ背景とそんなものには全く頓着しないこの2人の水夫の荒くれだった剛毅さが印象強い。最後にはこのグロテスクな王族共の、疫病ならぬ一人の御婦人をかっさらって2人はこの街を後にする。

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