réparer les vivants


日常の風景の中に人々が生活していて、そのありふれた風景を監督の独特の視点が切り取っている。それが美しく。

この物語は単純なものだ。一つの臓器が提供される24時間内の2つの物語。提供する側とされる側の物語。それに立ち会う様々な人々と共にあり、先は喪失を後は再生の物語を描く。

映画『あさがくるまえに』(原題:”Réparer les Vivants“)を見たのでここへ記録しておきたい(「Filmarks」のレヴューへ部分的に転載。2017年09月13日記)。

題名は「生(人生・生活)を修復する、治癒する」という意味を持つ。前半は喪失したもの、失ったものがいかに愛おしいものであるか、この映画を通して少し距離を置き傍観者的に見つめることになる。


すべての瞬間が美しく描かれている。しかし、美しく描くという事は正しく良いことであろうか?なぜそのような問いを立てるのか?

後半の臓器を受け継ぐ側が自問する、この先もう余命もそんなにない自分が人の死に伴い摘出された身体の一部を奪ってまで延命の「修理」をすることに躊躇している、その問いを受けるから。
彼女はいう。
「自分の心臓はやがて止まり、それが自然なことだから」


裕福で愛憎を経験し人生の後半に差し掛かった彼女の生に対する執着は前半の「失ったもの」の美しさを引き立たせていた。朝日は術後の彼女と青年の両親の対照的な表情を照らし物語はそこで終わる。

美しいとは、人を圧倒してそれが何であるのか理解しようとする人の言葉を奪うが、この物語は全てがそのような美しいもので描かれているわけではない。美しいのは、失われたものであり、その喪失は17歳の青年の死がもたらしものである。
青年の両親は関係がうまくいかなかったのか、別居をしていることが医師との質問のやり取りで分かる。どのような家庭で青年が過ごしていたのか一切描かれることはない。しかし、この青年と少女との出会いと恋の場面はとても愛おしく思える。父親は息子にガールフレンドがいることを知らなかったが、そのような愛につながるものを青年はしっかりと育んでいたことが死後の描写の中に挿入されている。本当に切ないぐらい脆く美しい。一瞬で崩れ去り消えてしまいそうだ(実際はそれが死によって消えてしまった)。

この物語が描くもの、その題材とするところは深刻で重いものだ。深刻で重いとは、死を扱っているためであり、医学的な「死」を巡る問題があるから。

この物語には様々な人々(例えば、両親をはじめとする、緊急医療の非正規看護師やその医師、「ドナーコーディネーター」やそのネットワークチーム、「レシピエント」と言われる移植者やその恋人等、またそれが緊急で死に際の患者を置いて優先される対応やシステム)が登場し、そのそれぞれが自身の人生を抱えており、この語られない問題に対して見るものは見逃すべきではないが、観終わった後に心地良いものが残るのは、この賛否ある複雑な問題を、一切の主張や批判を排して、ただ淡々と青年の死に関わる人々を映し出し、一つの物語、作品として観客に差し出し託しているから。