caño negro

黒い細流

”黒い運河(細流)”と呼ばれる湿原地帯、ニカラグアとの国境を間近にして、ロス・チレスという町で目にしたシーフ・シアトルの銘。なぜその人の言葉がこんな場所にあるのか。ただここが理念的に通じているものの発祥の土地で、それは直接関係のない象徴的な一致をその「発祥の地」にただ付随させたかったからなのだろうか。自分はただその銘の、1854年というその年代につながる背景についてだけそこで思いをめぐらせる。それからしばらく経て、その時には分からなかったけれど自分の中で今不思議なつながりを、目の前のいろんな事やモノに関して持ち始めています。

シーフ・シアトルについて少し書くと、彼の考えを知る手掛かりとしては、部族間で話された言葉から多くは書き留められ訳出されたものの中に残っています。その採録され訳出されたものに関して問題点が長い間残されたままだったのですが、何度かの校訂を経てその本文は現在ほぼ確定を見ているといいます。

語られた言葉に関して、何が問題点だったのか。その言葉は、語られ個人により書き留められて伝えられていく過程で何を失うのか。それを目にし読むものは何かを得る代わりに何を見失うのか。それはただ単に人の話す言葉上の、そして伝達手段としての翻訳上の問題なのでしょうか。

黒い細流”地帯を毛細血管のように張り巡らされ、あるいは澱み、幾筋にも流れる”冷たい川”、十分な水量を保ちながらも乾季にはその姿を消してしまう。川と聞きその源流を遡るのか、海へ続く河口を目指すのか。しかしそのどちらも正解はないのです。その循環の中に組み込まれ生まれ生きるものにとってそのどちらもが源流であり最終の行き着く場所なのだと考える。それはどちらかを目論んで往き惑う必要はないということです。

2006年06月03日記
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この記事は、2006年に半年ほど投稿を続けていたブログ上で掲載した最後のもので、その後も記事は数度、依然サイトへ訪問を続けていてくれた大勢の方へ宛てて「お便り」というかたちで投稿した。

その後、ブログの記事を単行本化した際に再読、今現在読み返した時にも、自分は同じ問題を全く逡巡しながら関わっていると思った。

そういったことからやっと解放されたのは、結婚し、子どもが生まれた事で全てを肯定できたという点は大きい。婚姻関係については残念ながら解消というかたちをとってしまった。子どもに関し、失ったものはあまりに大きかったが、しかし長い間争っていたこと全てが好転する兆しが訪れ、今年の3月に状況が一転した。同じ年の6月には新たな生活を新たな場所で子どもと2人で築き始めようと決めた。

このブログについては、「序文」で記した点を引き継ぎながら、新たに投稿を始めるにはこの記事の、「(なんらかを)目論んで往き惑う必要はない」という自分が到達した場所から再び始めようと考えた。

One comment to “caño negro”
  1. 魂の孤独ってヤツ、人間。獣たちと・・ 」(「投稿・お便り」 2007年09月08日)

    前回、最後に取り上げたシーフ・シアトルの銘について。

    1854年という年の記載。カニョ・ネグロ(コスタリカ共和国)にて。

    「カニョ・ネグロ」とは”黒い運河”という意味。

    ここでの運河は、幾筋にも枝分かれし細分化したという意味で(「毛細血管」の意も)、前回の題名はここからくる、”黒の細流”とした。

     “What is man without the beasts?

    If all the beasts were gone, men would die

    From a great loneliness of the spirit.

    For whatever happens to the beasts

    Soon happens to man.

    (野生の生きものを欠いた人間って?/ もしすべての獣たちが消え去ったとしたら/
    魂の孤独ってヤツから人類は死んでしまうだろう。/
    生きもの達に起ることは何であれ、/ やがて直ぐにも人間に起るのだから)

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    この言葉は些か悲観的な感情をそれを目にし読むものに与える。
    その人は、箴言集から引用された、または警句としての明快さと硬質な思想の吐露をそこに嗅ぐ思いがするだろう。そうだきっとそれで間違いがない。
    しかしそうだからと、これが、目の前で破壊され消えていく生物や自然環境を悲観的に眺め嘆いている、または、そういった状況や私たちの日ごろの行為に対する警告を語ったものであるとは言えない。

    でもここで考えたいのはこの大げさにした偉大な孤独ってヤツについてだ。
    「魂」とは古代ギリシアの哲人が説いた至上の、真理という人が理想を体現し到達したものや状態のことでもなければ、世界の見方を諦観から始め、この世を傍観者よろしく知識で武装し凌ごうとする仏教的真理とそれ(真理に到達しその理をひたすら実践して往生した魂)が赴く来世のことでもない。
    我々はこの「ナニ」について、スケベったらしくであれ、エロティックであれ、真面目にであれ、”なんちゃって”にわか出家、環境保護論者よろしく、連想・空想的に、一時的、発作的、断片的、誤謬的に今や考えてみる。すらすらと素読の教えを無視して言葉の誤解、誤読に意を払い、錯覚的にエゴイスティックに文章を読み進めることになる。

    これでいいのだ。今の日本の消費者とはかくの如し。いまさらこの生活スタイルを変えるわけにはいかないだろう。
    それが許されないのだとしたら、安易な自分の現代消費生活や選択して発展してきた便利さへの依存を断ち切るだけの覚悟がいるだろう。

    あなたにその覚悟はありますか?

    自分たちの日々の快適で楽しい生活や子供たちの未来を直接犠牲にしてまで(不特定の子供たちの不確定の喧伝された未来を担保にして)。

    ですがご安心あれ。やがては採録、翻訳され、多く引用、孫引きされるシアトル氏の”箴言”の言葉が暗示するように(またはそのように利用されるように)、昨今の日本にイノシシやツキノワグマよろしく、我々も人間としての境界線を越えて餌を探しさ迷う時は来るだろうから。それに備え、今から本能依存型の獣性を研ぎ澄ましておくのがよいかもしれない。無責任ながら。

    我々に限らず、哺乳類は怠惰、やっぱりダラダラとしたのがいいなぁ。
    とそんなことをウダウダ、うだりながら書き記している。傲慢にも。

    ここまで来て、シアトル氏の銘文が記された壁面の絵の中には人間が描かれていないことに改めて気づき違和感を覚えた。
    何故か?
    つまりは・・・ そう、あなたのお察っしする通り(自分でもまだよくわかっていない)。

    それはここでは触れないことにして、いい意味で考えれば、その絵の前に立つ旅行者にその中に加わるか否かを問うているようだ。
    ですが確実に食われますね。ワニとかに。雨期、栄養価の高くなった河口には濁流に隠れたサメが待ち伏せています。集団黒ザル(コンゴ)にも、まさしく怪鳥の如しのコンゴウインコにも襲われます・・・

    実際の壁面の絵は動植物で賑わい、もう少し色鮮やか。
    現地でお探しあれ。

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