manifestation

虫めづる姫君の事


原文
「此ひめぎみののたまふ事、人々のはなてふやとめづるこそ、はかなくあやしけれ、人はまことあり、ほんぢたづねたるこそ心ばへおかしけれとて、よろづのむしのおそろしげなるをとりあつめて、これがならんさまをみんとて、さまゞなるこはこどもにいれさせ給ふ、中にもかはむしの心ふかきさましたるこそ心にくけれとて、あけくれはみゝはさみをして、手のうらにそへふせてまほり給、わかき人々は、おぢまどひければ、をのわらはのものおぢせず、いふかひなきをめしよせて、箱のむしどもをとらせ、なをとひきゝ、いまあたらしきにはなをつけてけうじ給人はつくろふところあるはわろしとて、まゆさらにぬきたまはず、はぐろめさらにうるさし、きたなしとてつけ給はず、いとしろらかにゑみつゝ、このむしどもをあしたゆふべにあいし給」
(『提中納言物語』所収「むしめづるひめきみ」の条)

現代語訳
「この姫君がおっしゃる事。「みんな、花やぁ、蝶やぁ、とか言って幸せモードになんか入ってるヤツらは、二またかけてる感じでラブラブみたいなぁ、それウソじゃんっていう感じぃ。アタシはここにいるのよって、それじゃぁ実感がないわね。”モノの本性を見究めよう”っていうそういうマジな気持ちが素敵なのにぃ、なんちゃってなんかじゃダメッ」と言って、何種類にもなる虫のゾッとするような不気味な姿をしたのを集めてきて、「さぁ、見るわよ。モンモンちゃんが大きくなっていくのをずっと。ふふんっ」と、色々なカゴや箱にお入れなさる。その中でも毛虫を「ときめいてイケてるそのお姿ってぇ、ポッポッ、たまらないしぃ。プッ」と、朝は早くから夕方暮れるまで一日中、邪魔になる髪を小耳に挟んで止めて、毛虫は手で大事そうに包んでお見守りなさっている。同じ年頃の人たちは怖がって遠慮がちに戸惑ってしまうので、男子の児童でも虫も怖がることがないきたならしい者達を集めて、箱の虫達を手に取らせては名前をお尋ねなさって、知らないものには名前をつけて面白がっていらっしゃった。「それってなんかぁ、わざわざ顔を化粧で繕うなんておバカ」と、眉毛すら抜いて整えることをなさらないで、お歯黒染めを「そんなのウザい、キモい」とお付けなさらず、たいそうお白い歯をニッとさせながら、この虫達を朝も夕も愛(め)で慈(いつく)しみなさるのでありました。」

解説
・・・と、このように現代語で訳してしまうとこの姫君の天真爛漫ながら、観察眼の鋭い理知的で芯の強い性格を読み違えてしまいます。もっとも、意味は正確無比に訳しております。

古い因習的なしきたりや世間体などを気にしないで物事の本質をズバリと直球で捉えて、きっぱり否!と言い切れる、破天荒で突出した個性の持ち主であったと、そういう一面は出たようには思いますがいかがでしょうか?
一方で好きなものに対して、この場合は生命ある虫達ですが、根気良く観察を続け、愛情豊かに彼らに接するこの姫君の姿は、本来子供達の持つ姿かもしれません。 アニメーション映画 『となりのトトロ』の監督・宮崎駿さんの作品に有名な 『風の谷のナウシカ』 があります。
氏は連載されていた原作版の後書きに「ナウシカのこと」としてこの「虫愛ずる姫君」について言及しています。氏はその後の姫君の運命が気になってしかたがなかったと言っています。「習慣とタブーに充満した平安期に彼女を待ちうけた運命はどのようなものであったか」と。

この姫君の出典は氏が言う 『今昔物語』(『今昔物語集』)ではなくてこの 『提中納言物語』 になります。氏によってすっかり有名になってしまったこの姫君の事。でもその後の姫君についてはあまり知られてはいません。

まず第一に両親が心配するでしょう。しかし、両親の心配や問いに対しても姫君は聡明に迷いのない答えを出しますので両親もこれには負けたというのか、娘の容姿(実際は素顔のままとはいえかなり美しい人)だけではないその器量の深さにも心付いてしまいます。

一方で世間の風聞も気になります。不気味な毛虫と興じているぞとそんな風に言われるのは両親も辛いものです。そんなものはどうという事はありません。様々な事を見知っても、その最期の様をも見届けてこそ道理がつくというもの。毛虫も最期には蝶になるんですよ。と毛虫から人々の賞揚する蝶に変身した姿を見せます。続けてたたみかける様に言います。絹とて人がお召しになるもの。人は蚕がまだ羽をつける前に養蚕を始めて、それ(蚕)が仕事を終え蝶になったからと言って着物の袖の邪魔になりましょうか? こういわれれば両親は何もいうことができない。結局 「鬼と女は人目に見えないのがいいのだ」とこんな風に考えるようになります。

そしてこの姫君、なかなか骨のある男性に出会います。結果はどうなるのか?そんな長い話ではありませんので興味をもたれた方はお読みになってもいいかもしれません。

『風の谷のナウシカ』 について少し。

このアニメーションについては何点か述べたい事もありますが、その内の1点について。 昆虫と人間が共に暮らせない世界が舞台です。人間が汚し切って破壊し捨て去った大地を腐海と呼ばれる森が覆い、その片隅でわずかな土地を争って人々は戦争を繰り返しながら生きています。森は猛毒の瘴気を出しその瘴気に誘われて昆虫が集まり、その昆虫達がこの森を守っています。なんとも悲壮感漂う世界です。 その昆虫達の頂点に立つ王蟲(オーム)という虫がいます。森や昆虫を少しでも傷つけるとこの甲虫が群れをなして襲ってきます。死するまでその暴走を止めない彼らの生態は自らの死骸を苗処にして胞子と腐海の拡散につながっています。一匹の巨大な王蟲に遭遇したナウシカは、その青く澄んだオームの眼に何かを聞き、何かを思い出します。
青い空。木々に風がわたるさざめき。その木の間よりこぼれる光。幼い時の記憶。懐かしいものと同時に何か切ない記憶がよみがえります。
現在の自分自身の原形を形づくっている、その素となるもの。幼い頃の経験や過去の遠い記憶。これはナウシカの原風景です。

幼い時オームのこどもを見つけ内緒でひとりで育てています。虫と人間が一所に住めない世界でナウシカは生き物たちにごく普通に興味をもち、遊んでいます。いけないものというちょっぴり後ろめたい気持ちを持ちながら。

オームの青い眼を通しそんな記憶をナウシカは呼び覚まされます。人々から取り上げられようとしているオームの子供。必死に隠そうとするナウシカですが、何も知らないオームの子供はそのナウシカの足元からチョロチョロと出てきてしまいます。そしてオームの子供はとりあげられ大人たちによって何処かへと運ばれてしまいます。

腐海の森の奥、その下へ落っこちてしまったナウシカがこの時の夢を見ます。そこで彼女はおおきな摂理の中で生きる、オームや自分達をも含めた、自然・腐海の生まれた理由を理解します。

連載されていた作品とアニメーション映画とはその「腐海」の意味がまったく違っていますが、個人的にはこの一作で完結してしまった映画版「ナウシカ」は好きな映画の一つです。

#モノの本性を見究める
当時の「本地垂迹(ほんぢすいじゃく)」説に拠って立つが、神仏という観念よりも、現代で言う人間の実存的探求を指す。また科学的な実証法による諸現象を見究めようとする彼女の姿勢が顕われた言葉といえる。

「人はまことあり」とは人は本来そういう探求の資質があり、かりそめで移ろい易いものごとに惑わされる以前に、自身同様その本質を見極めようとする心が大事だと大胆にもキッパリと言い放っている。この時代にてもなんと半端な生き方を許さない天晴れ姫君であることよ。
(初出 2005年11月21日記。再掲載 )

写真1:原典テキスト(京都大学電子図書館蔵)
写真2:『NAUSICAA of The Valley of Wind』(徳間書店/ VIZ P. Inc.)