clown philosopher

序章:「笑いの原理と批判精神」

●狂言テキストの成立背景

素性がまったく知れない『天正狂言本』と今では呼ばれる古写本がある。その末尾には「天正六年七月吉日」の日附があり、ここからこの名前が研究者の手によって便宜上付される。素性が分からないというのはその資料としての信憑性が疑わしいということを示すわけではなく、この写本の出処や成立の経緯、署名が記載されてはいるが、後世のものと思われる装丁や不自然な花押等、不明な諸問題点があるものの、依然そこに記された曲目本文の内容が、狂言がテキストに記され伝承し洗練されていく以前の古形態(同演目のテキスト本文を比較・検討した結果)をとどめていることから、現存する最古の狂言(写本)テキストであることは疑いない。その中に「つりぎつね(釣狐)」という演目がある。これは現在一子相伝の「秘曲」とされ、シテ(主役)を演じる演者も演場も限られている。 

近代以降は技術的な面からそう指定されたものと思われるが、それ依然は違った。それ以前とは正確に言うとかなりの時間的な「揺れ」がある。「揺れ」は、資料的にはあいまいで、歴史の背後の緩やかな、事象がたゆたう時間の時差があるということ。人もモノも、言葉もすべてはみなそうであった時代の事だ。狂言の舞台で語られた言葉もそんな記録に残らない「揺れ」の中ですべて消えていった。「消えていった」というよりも意図して「消した」といったほうがいい。では一体何を消したというのか?狂言の舞台で語られた言葉とは何だったのか。 

天正年間とは西暦1573年から始まる19年間。その時代に何があったのかはここでは記さない。天正から11年後の1603年には、関ヶ原の戦いで豊臣家よりも優位に立った徳川が江戸に開府した。この戦さが天下を分けたわけではなかったことは、私家版で、徳川の歴史書『徳川実記』の中ですら見て取れる。大坂で慶賀の祝い時等には、必ずに駆けつける遊芸者一団の移動は、徳川にとっては面白いはずはなく、同時にそこからは未だに豊臣方が一大勢力を保ち君臨している様が読み取れる。そして徳川が大坂方の、高台院(北政所、秀吉の正室)等の動きを逐一監視しては事あるごとに威嚇し干渉している条が散見。その権勢の駆け引きの間をスルスルと抜けながら国の境界線を越え、自由に芸能者達は立ち回っている。 

さて、一斉を風靡し、時の勢いに乗る狂言方の鷺流という一団があったが、大坂は夏の陣の後に、豊臣家が滅び一転して、中央を追われ、他流が徳川を以って庇護されるという条が見られる。そして各地方へ離散した彼らのうち、何人かは佐渡へと渡っている。それを追うように他国からも付き従う動きがあった。この鷺流の一団とは何者だったのか。この流派の結成は先の天正年間を母体にして忽然と発す。 

●「数千の骸骨、甍を敷きたるが如し」 

能楽に対して猿楽と云われた狂言であるが、その成立過程は資料上ではまったくといっていい程に何も残ってはいない。 

現代の古典芸能、特に「狂言」について言及すると、今でも家伝書といわれるものを紐解き、系図によって、自らの伝統と家系の正統性や由緒がツラツラと書き連ねられ、もっともらしく語られている。結構なことだ。現在唯一正当な系図と伝統的流れを受け継いでいると喧伝される格式高い大蔵流狂言にしても、芸能者がその名を記録に留めるのは稀なことで、彼らが祖と仰ぐ家康に拝謁した記録上最初に現れる「彌右衛門」なる狂言師の素性は知れない。さらに彼が正式に召抱えられ公儀に服したとは記されてはいない。その業の素晴らしさに褒美を賜る栄誉を得たとしか分からない。さらに過去に名を連ねる伝説上の始祖達に我が系図を繋げ殊更重々しく捏造するのは権威やブランド名が有難がられるいつの時代にもよくあることだ。ただ詳細不明で偽装工作が可能な歴史の空白があったとしても、現存する資料やそんな作為という巷の事象からは離れ、狂言というものが成立していった過程を想像することはそんなに難しいことではない。 

芸能は本来祭儀に結びついたものだ。舞や能楽もその技芸は寺社等の祝いの場で寄進されたものだった。五穀豊穣を願うまたは収穫を感謝する祝祭は、疫病や災害、死者の祟りを鎮める御霊会に起源を持つ。最初、能の舞楽は合戦で大勢が討ち死にし、非業の最期を遂げた死者の魂を鎮める鎮魂の儀典であった。能楽の演目形式自体が前段に今日の栄達を寿(ことほ)ぐもの(三番叟等)で始まり、共同体内で共有すべき歴史事実を語りながら死霊を迎え、それを鎮める曲目が続く。やがて彼らに自国の守護を願いながら神々として祭る。猿楽はそんな典雅で厳粛な儀式の間合いを和ませるもので、幕間に即興的に演じられた。猿楽は農作業の間合いや音頭などにも活躍し、一つの国、一つの町として、共同体の存続と維持に欠かせない「ハレ」と「ケガレ」の場で行われる祭礼は豪快で華やかだったことだろう。それは土着の卑俗さを合わせ持ちながら大らかで、共同体での暮らしに活性化をもたらした。ここには文字などで書き記されない生活に根付いた文化のダイナミズムがある。しかし文化と言うにはまだほど遠い、農民や、無骨で、ほとんどは多くの素人達で構成され、彼らを交えながら演じられた狂言。この幕間で演じられた猿楽狂言は人々の笑いを誘ったであろう。物マネや卑近な時事ネタ、または時に敵対する武将のパロディ等が催されたであろう。石山本願寺勢力下の門前町の様子もこのようであったかと想像する。天下は未だ統一されず、一国一国が独立していた時代のことだ。 

石山本願寺には舞の名手としても知られる武将・下間仲孝もいた。法官(家老・執事職)の一人であった彼は、1580年の信長と本願寺十一代宗主・顕如との講和条約に署名した三人の中の一人である。この下間家は代々、宗祖・親鸞の時代から参謀的な役職を負ってきた家柄。一方で母方に芸能を業としてきた血筋をもっており、仲孝自身も幼少期に既に金春流の秘伝を授かっている。下間少進という名で能楽師としての顔を持つ。 

応仁の乱によって都が焦土と化し、文化的土壌が奪われ、それが地方へと伝播していく因をも作ったが、この先の時代には諸文化や芸能が衰退していったのは間違いがない。そんな中で本願寺などは積極的に彼らを招き、取り入れていった一つである。武将で要職にあった下間家と芸能とのつながりは、芸能者が卑賤な身分だと考えられ、記録にもその名を留めない側面を諸芸能がもちながら、能同様に猿楽狂言がやがては、演じ方や演目など形式を獲得し洗練されていく、その過程が決して偶然ではなかったことの傍証でもある。 

信長の天下布武の野望によって、悠然として国を維持、しかし長年の抵抗を続けながら、この「百姓のもちたる国」として栄えた百年王国は、一転して十年間の戦火で壊滅、勅許による和睦が成り全面戦争は収束しても、一独立国としては滅んだに等しかった。そんな中で、未だに反対勢力がくすぶり抵抗も各所で続けている状況下、即興で機転が利き、時代の即時的な情勢に通じている「狂言」という言葉をもった芸能者が、政治的に高度な一集団として組織されるにはそんな時間がかからなかったであろう。異常なまでの残党勢力の駆逐や、監視・検閲の強化など、抵抗分子の摘発と排除は政権統制と維持のため、あの徳川時代を待たなくても想像以上に凄まじいものがあったろう。この時代、記録を残さない、一過性の、公衆の面前で展開する、消えてなくなる、舞台上の言語が果たした役割は大きい。これは狂言が抵抗の批判精神を獲得していった時代の輪郭だ。  

●殺生石とコンカイの涙 

狂言『釣狐』は、腕利きの猟師に一匹だけ最期に残った狐が狩りをやめるように説き伏せ騙す話だ。狐は、猟師の祖父で坊さんでもある白蔵主に化け彼を訪問する。狐は早速狩りなどと云う殺生ごとをやめるように彼を諌める。そして那須野にある殺生石の事跡を語って聞かせる。鳥羽院の時世に、絶世の美女・玉藻ノ前という女御がいて帝の寵愛を受けていたが、それは実は物の怪で帝を煩い悩ましていたと。陰陽師を立てて占い、玉藻ノ前を調伏すると、堪らぬとみて大狐に化けて虚空に消えていった。その行方を武者二人が那須野の原に追い逃げ惑う狐共を尽く退治するというもの。玉藻ノ前は死して後もその執心が止まずに瘴気を吐き続けながら石になってしまう。そばを通る旅人はこれを殺生石と呼び、毒気を避けてこの原を迂回して旅を続けるという伝承を語って聞かせる。狐の執念は恐ろしいゆえに殺生はしてはならない、努々(ゆめゆめ)このことを忘れるのではないと告げて狐はさっさと帰ってしまう。その帰り道、狐は猟師の仕掛けた罠にかかって、後悔と共に夜空を仰いで泣き叫ぶ。 

●反骨の精神、異なる場所と異なる時代 

体制強化・保持を図る権力体制側の検閲規制の徹底ぶりは想像を絶するものがあった。それは一族の繁栄を図って妨げになるものを、血の繋がる兄弟であってもすべて殺害・排斥していった旧態からの常套手段と同質なものがある。その執拗さは、敵対し戦さにまで発展した相手側一族・郎党の敗残者を、血筋を絶やすことを目的に徹底的に追求し一人残らず殺害していった原理からも現れている。体制を批判するというのは、何らかの確執や怨恨を持ち、正に命を張ったものになった。 

江戸も泰平な時代が長く続き、洒脱的に戯言(ざれごと)を放つものが現れるが、それすら暗示的に批判を、形式の中で、つまり俳諧・連歌や戯作物(今の小説)、市井の芸能や戯れ唄といっ  た形で仄めかす程度にとどまり、依然幕府の権力は超然たるものがあった。江戸後期から幕末にかけては確かに、力をつけ始めた諸藩に対して、幕府の勢力が疲弊し、「黒船」来襲以来、体制の弱体化や権威の失墜が露呈し出したが、天保期の浮世絵師や戯作者たちの反骨に満ちた批判精神もこう言った時代層の中で行われた。 

規制力の衰えと攘夷思想に乗じた倒幕の気運が起こると、一斉に批判や幕府失墜を画策した反抗的な活動が頻発する。長州藩士の高杉晋作などはこういった洒脱な戯言を好み、早唄や都々逸の節回しで相手を皮肉る等、まずは体制批判と権威失墜の強力な武器として天性の才を見せたことはよく知られている。しかし彼の師吉田松陰などは幕末維新の前期世代に属し、反体制者は尽く処刑されてしまった如く、未だ幕威が衰えない、幕命による抑制が断行可能な時代であった。 

時はそこから約半世紀を経た時代、舞台はまったく異なる地へと移って行く。1905年、旧チェコスロヴァキアで彼は生まれた。  

●語られなかった言葉

親愛なるシュティナ 今すぐ君のもとへ行こう。この言葉が消えてしまわないうちに・・ 光なく荒涼としたこの地は私たちが望む場所ではないのだ。- J.ヴェリフ」 

演劇を定義する要素には、現実の捉え方の違いが大きく関わっている。現実の中で語られる言葉は真実だろうか?偽りだろうか?あなたが座る観客として達観した場所に人生の真実はおそらくないであろう。言葉に実体はなく、しかしそこに真実や自分の存在を与えるものもやはり言葉なのだ。彼の生きた時代はそんな虚偽的な事実を創り出す必要のあった時代であった。言ってみれば、狂言舞台の悲・喜劇。遊戯的言語が放つ真実性と透徹した批判精神が彼、ヴェリフの生を貫くものであった。今も、彼の祖国であったチェコの人々の中にはそんな彼の精神が受け継がれているように思う。 

さて、序章を終える時が近づく。言葉は武器であり、それに虚偽という香料を加えて人は現実の舞台に立っている。ここでは、その断片的な言葉の記憶、語られなかった言葉の数々を拾い、伝える試みを。実体のない言葉と、舞台というライトの中に照らされた生がそのまま、人間の存在を映し出している。狂言、ヨーロッパ的悲喜劇、または彼に拠った遊戯的言語の、批判精神は、その「舞台」の上でのみ初めて意味を持ち得た。Jan Werich(ヤン・ヴェリフ)。チェコの人たちはいまだに彼のことを敬意を込めてClown Philosopher(道化の哲学者)と呼んでいる。 

One comment to “clown philosopher”
  1. 『信長公記』: 慶長年間(1596 – 1615)に成立。信長の右筆・太田牛一の著作。編年体で記述。信長の幼少期から上洛までを首巻として、永禄11(1568)年から天正10(1582)年まで1年1巻づつの構成。同時代に書かれ、同時代を知る「第一級資料」。信長側に立つ視点で記されているが、高慢で洒脱、簡潔な描写は信長本人をよく概観できる。

    荷宝蔵壁のむだ書(一勇斎国芳筆)」:
    1798-1861(寛政18年-文久元年)江戸後期・天保年間には役者絵も奢侈禁止・風俗粛清等を断行した幕府禁制の対象になった。これは歌川国芳があえて落書きに見立てた役者絵を諧謔的に描いたもの。

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