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8月下旬のまだ日差しの強さが残る、でも空は完全に秋の模様。ここ井伊谷の地は風が涼しく渡っていた。

井伊谷小学校。「いいのや」と読む。

ここは生徒数300人ほどの山間に建つ小さな学校。小さいといいながらも少子化にともない市内いずれの小学校も今ではこれぐらいの規模だと聞いた。
築56年の学び舎の改築に伴う移転作業の現場で、解体前の教室を撮影する機会を得た。

「井伊谷」の地は言い伝えと共にその名を歴史に刻んでいるが、その言い伝えに拠れば、井伊谷は南北朝時代の皇族・宗良親王が没した地とされる。宗良親王は『新葉和歌集』の撰者として知られるが、親王の私家集『李花集』にも、下に挙げた同詩歌が収められている。

その詞書にこの地一円を拠点にしていた頃の親王の様子が記されている。

「遠国に久しく住み侍りて、今は都のてぶりもわすれはてぬるのみならず、ひたすら弓馬の道にのみたづさはり侍りて、征夷将軍の宣旨など給はりしも我ながらふしぎに覚え侍りければ、歌よみ侍りし次に(以下詩歌が続く。『古今和歌集』所収、紀貫之の歌の本歌取り)」


「思ひきや手もふれざりし梓弓おきふし我が身なれむものとは」(『新葉和歌集・巻第十八』)


本稿をカテゴリー「日本という国」に入れた。理由は私の子どもが今後生育していくバックグラウンドになる環境だから。それに絡めて、井伊谷という古来より人々の思いが交錯する由緒あるがヒナびたこの地で、「教育」の現場で目にし思い考えたことをここに記したいと思う。

最初にちょっとした再会があったことを記す。
学校側で現場の応対に当たった女性教員が自分の高校時代の同級生であった。彼女自身からここで教頭を務めていると伺った。まだ年齢的には若いのに何か特別な抜擢を受けたものであろうか?人事に関する取り決めについては分からない。また彼女と高校時代に何か接点があって知り合っていたわけではなかった。中学も同じではあったが、高校3年時に確か同じ学級だったと記憶する、その程度だ。また、教師になったという2人の同学年の名前を彼女の口から告げられた時に特に感慨があったわけではなかった。

私の場合、特に高校に関しては完全に交友関係や出身校の「縁」は途絶えて久しく、記憶の外に埋もれていたために、時間的に隔たってしまった、思考回路を再び取り戻すのに要した躊躇・・・何かマイナスな、抵抗すら感じるこの自らの反応に戸惑いを覚えた。しかし、突然、偶然に目の前に見知った同級生がいて、年齢を経たその容姿に現れるかつての変わらない表情を目にしてこの時差や戸惑いが消えた。

彼女は終始の笑顔と明朗な言動で、周囲を絶えず朗らかな雰囲気にさせていた。私もそれに好感を抱いた。そして、同級生が教育の現場に職を得て働いていることを知ったことで、かつて自分も教師を目指し大学へ入学したことをはじめに、あの頃のことをいろいろと思い出していた。記憶の「回路」がつながり出したこの感覚、といったところだろうか。ただ、「マイナスな、抵抗すら感じる」自身の反応の原因に関しては、それは選んだものと選ばなかったもの、この両者の違いを理解し、その点を自身が承知していたためだと考える。
これについては以下で少し詳しく記して見る。その前に2点ほど現場で気になったことを書き留めておく。

一つは、搬出される荷物の中に備品・教材としてカメラが無造作に混ざっていたことだ。レンズのキャップもなく他の教材と同じ箱に入れられ埃まみれになっていた。キャノンの銘が痛ましかったので、搬出先を指示していた担当の教員に言葉を掛けてみた。

「ここにカメラがむき出しで入ってますけど大丈夫ですか?」
揶揄する気持ちもあってそう尋ねて見たのだ。
「ああ、それ。全然大丈夫です。」
程なくしてその教師はぼそりと言葉を続けた。
「・・・それ、もう買い替えないといけないですね。」

もう一つはごく普通の何気ないことだが、こんなことがあった。
荷物の搬出先はプレハブの仮設校舎であり、作業場は日差しが強い戸外以上に気温が上がっている。作業する前に窓を全て開け放ち、涼しさは期待できないが酸素を十分に確保した状態で多勢の搬出者が作業している。主に各教室へ運び入れられた段ボール類はそれぞれ担任が開梱し整理をする訳だが、数人の同じ学年の教師が窓を全て閉め始め、教室に冷房を入れ始めた。
「これで少しは涼しいでしょ」
入れ替わり立ち替わりして荷物を運び込んでいる作業者に向かい一人の女性教員が言っていた。

冷房で教室の温度を多少下げても、教室に荷物をもって入って来て直ぐさま次の荷物を取りに駆け足で退出していく作業者に効果があるとは思えない。それぞれの教室への搬入作業も直に済んでしまうので、そこにとどまり開梱作業をする教師自身の便宜を図ったものであることは明白だった。しかし開梱用の箱がいくつもあるわけではないのでその作業自体も時間がかかるわけではない。実際、搬入が済んだ教室に教師が作業をはじめ程なく作業を終えて退出していくのを何人か実際に目にしている。教室が冷え始める前には既に作業は終わっているが、広い教室を冷房装置で冷却するパフォーマンスの負荷を考えれば随分と思慮のない、もったいない行為である。この数人による教師の計らいは、作業者達にしても酸欠とさらなる温度上昇によって作業環境の悪化を招いている。これは結局は自身の快適さのみを求めた随分身勝手な行為だ。

搬出作業は最初に職員室から始められ、それが済むと教員たちが銘々の机で作業をしていた。設備業者による業務用設備もここから始められ、冷房装置も既に設置が済んでいた。職員室はギンギンに冷やされ、まさに「別天地」の恩恵にこの教師達は無意識に浴している、その光景。

小学校の状況をここで批判するつもりはない。暑ければ我慢する事も必要としない、快適さを欲してそれに無意識に依存するのは、現代のおそらくそれは一般的な人々の意識であろう。一学校で全教室を冷房で冷却した場合の経費の額や、節約し経費削減に努めた場合の公費の算定額に思慮を働かせる必要をここで説こうとするわけでもない。経済的な観念や社会経済の生業に関する認識がないのは公務者の常でもある。

私の子どもはまだ幼いのだが、初等教育の段階でこのような状況、指導者のもとで6年間を過ごさなければならないとしたら、少なくとも私自身の場合、そこで「教わる」のは勘弁して欲しい思った。これは私のただの個人的な願いではある。

ツールは便利なものではあるが、ただ使えば良いというものではないし、それに付随した情報・知識(試験などで問われる)を覚えるだけでもない。道具は使った後にはメンテナンスが必要であるし、大事に扱い正しい使い方に習熟し、その技術レベルを挙げていくことができるだろう。またそれらは非常に面倒くさいものだが、道具の状態はその持ち主について雄弁に語るものだ。
教師という職につくこの教職員の場合、埃にまみれ手入れされていないこのカメラは一体彼について、あるいは彼が教師になったという背景や社会的な状況について、何を語っているのか。

メンテナンスも無し、使えば使いっぱなしで埃がかぶったまま新品を買う事ばかり考えている。使い捨て大国ニッポンを地でいく教師が初等教育の場にいるこの違和感。

違和感や疑問を持つのは私だけだろうか?

先の教員にしても、良識や知識・経験、社会問題に対する自らの省察を裏付けにして、自分達がどっぷり浸かっている習慣や行為、教育上、子どもの発育上の弊害に対して疑うことをしないのだろうか?あるいはそのような考えを持つ話し合いの場や機会は彼らには全くないのだろうか?教師という職種の人たちに教育者というレッテルを負わせるのは酷な話なのかもしれない。

この小学校でかつての同級生に会ったことは先に触れた。人は往々にして大事な事や肝心な事は何も話せないものだ。また、日本人同士の意識と、本来日本語のもつ人との関係性が重視される特性は、社会的な立場や、その場に居る人たちの言葉遣い、その内容まで規定するよう働きかける。良識が有れば、個人的な話題や友達同士で交わされる会話等を避けるのが無難だ。
偶然見かけた元同級生にしても、特に何かを話した訳ではなかった。ただ私や私の名前をフルネームで覚えていた。そして唐突に昨年まで同小学校に在職していたという別の同級生の名前も告げられた。その名がすぐにはピンと来なかったのでしばらく間があった後、ははっ(笑い)、やっぱりセンセイになったんだと思った。良くなれたなとも思った。「ああ、そうなんだ。へぇ」と返事をしたが空寒い思いがした。

彼とは小学校から高校まで同じ学校だった。小学校で6年間、5、6年時に少年野球をやっていたので、特に仲が良かったわけではなかったと記憶するがよく顔は合わせていた。中学では野球部を彼は選ばなかったので接点はそれまでになった。高校2年の時に一度同じクラスになったがあまり記憶していない。友達という感覚はなく既に疎遠になっていたはずだ。

当時こんなことがあった。高校2年の最後にクラス文集を作成したのだが、私が色紙に描いたイラストを見た女子が数人彼の机の周り(ちょうど色紙に彼が書き込む順番だった)に集まり賞賛していた。女子達が誰がこれを描いたのと彼に訊いている時に、彼はいきなり私のイラストに書き込みを始めた。「やっぱりマサカズが描いたんだぁすごい〜」だって。彼は否定もしなければそのまま私のイラストにへんてこなバランスの悪い駄線を付け足し続けた。私はその横の席だったので一部始終を見ていたのだが、その横暴な行為に抗議する意味も込めて「ちょっとそれ貸して。まだ自分の絵描き終えてないから」。その私の手を払って彼はご満悦顔に私のイラストを駄作に変えていった。

少年野球を始めて一年後にバッテリーを組まされた小学校6年頃から感じていた彼に関する今までの違和感がその時一瞬にして氷解したのに気づいた。これは些細な事だが、その彼の本質、彼の歩んで来た人生17年のプロセスが全て現れたエピソードだ。当時、彼は所詮そのような男だったと鼻で笑えたのを思い出す。と同時に、何か哀しい気持ちをその時もったことも今よく思い出された。哀しく思ったのは、一番大事な幼少期を過ごした時期にたまたま一緒で、その瞬間瞬間(とき)をクラスメートとして知り合い共通の思い出を積み重ねて来た筈が、彼自身は全く心が響かない人間であり、そんなこと以上にその流れ去った時・時間を大切でいとおしく思うからだ。

子ども・青年期特有の正義感というのだろうか、潔さ(良くも悪くも正直さをもつ)や明朗さを大人(中学校高学年ぐらい)になってからも失う事無く保ち続けるのは今の日本では困難なことだと感じる。幼少期から既に失われたか初めから養育されなかったか、そのような子どもを時折見かける時、やはり哀しい思いがする。この元同級生の彼にしても、小さい頃かつて知っていた、でもこの卑怯な人間をその時哀しく思った。それ以降、彼は私の記憶の中では、元同級生に今再会しその彼の名を聞くまでは、完全に消えかけた存在になっていた。

もう一人の名前も挙がったが、確信がなく自分が知る相手かどうか質問をして改めて彼であると思い出した。小学校の頃、同じクラスになったことはなかったが、仲のよかったのは今でも覚えている。彼の母親も小学校の教師をしていたようだ。中学ではそれぞれ部活(剣道部と野球部)に忙しくなったのと、通った高校が違ったので付き合や情報交換はそれ以来なくなった。どこかで随分と前に彼は教師になったことは聞いていたように思う。彼はきっといい教師になっているだろうと確信できる。

2人の元同級生の名を彼女から告げられた時に、自分も教師を目指していたんだけど・・・ということは伝えた。「・・・でも挫折しましたね」と言った後に続けて、「神戸であったでしょ、児童がこれ(首を切る仕草)のあった・・・ それがあって以来」。

私が何のことについて触れていたのかを彼女が理解したかどうか分からなかった。
突然自分の中では様々な感覚が思い出された。あの事件、あの頃自分が逡巡し手探りで日々漠然と無駄に過ごしていた数年を思い、今に至ってまだ焦燥を感じるのは未だに消化されていないことのためであることに思い至る。何かソワソワし出し、言葉にならない感情がのど元につかえている。言葉の気持ちに及ばないことを思いただ黙るしかない、自分の中に見えかけた探し物を再び見失った、そしてそれがもう随分と時間が経ってしまったことに気づき、遠い思い出の産物になっていることを今は悟る時だと感じている。ただそれは後悔の思いとは違うもの。教師に成れなかったのではなく、ならなかったという自分の選択が正しかったことは今でも分かっている。

当時同じ大学の同級で、体育会を自負しクラブ活動やコンパに明け暮れていた奴らは皆教師を目指していたが、社会を知る機会に飛び込むことなく4年間で学生生活を終えて何人かはストレートで教員になっていった。彼らはあの事件をどのように自分の中で決着をつけ消化していったのか。あの頃、何も躊躇することなく教師というものになれたものはいないと私は信じたい。それだけあの神戸の事件は強烈な出来事だった。そしてそれに続く黒磯中学の事件では同じ大学の後輩(自分より先に卒業し英語科の教師を務めていた)が自らが教えていた生徒に授業中、他生徒の面前で殺害された。私は教師とは無力だと思った。その無力なまま、教職員という組織に属しその枠の中で職業として、私が目にして来た教師達のように黙んまりを続けて精神が朽ちていくこと、その彼らの中にかつての生徒が教師として舞い戻ることには堪え難かった。教師という、他人が成長しその人生に大きく関わる場で、自分の無知や厚かましさに知らん顔ができるほど私は優秀でも真面目でもなかった。

ここで神戸で起きた事件について少し別に稿を起こし続けて見たい。


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