tobacco


滞在先の古都ジョグジャカルタで見かけた光景。

歩道を歩く小学生の集団。背丈から推して小学中学年ぐらいだろうか。午前中に路上で見かける小学生もまばら(大抵は授業中だから)で、最初後ろからこの小学校の制服を着た小集団を路上に見かけた時は少し異質な印象を受けた。

ベチャ(二輪車をくっ付けた人力車のようなタクシー)に乗り彼らの脇を通り過ぎた時、私はあっと声を上げてしまった。私が見かけたこの子ども達はみんな歩きながら煙草を吸っていたのだ。私はその時、喫煙をしながらマーケットからほど近い路上を歩いていたこの子ども達に驚き呆れてしまったのだが、子どもの喫煙はここインドネシアでは珍しいことではないという。
「未成年者」の喫煙(関連記事)。しかも小学生の「児童」。ここインドネシアでは幼児から喫煙する習慣をもってしまったものが非常に多いそうだ。たしかに煙草も一本単位で安価に誰でもどこでも購入が出来てしまう。

インドネシアに入国し空港の外へ足を踏み出せば、其処彼処でタバコを吸っている人たち、ならびにその吐き出された煙に出くわす。

喫煙者がところ構わずに喫煙し排煙しているのは日本でも変わらないが、世界に大きく遅れる日本でも喫煙の害や煙草に含有される有害物質に関して認知度が少しずつ上がって来てはいる。受動喫煙(副流煙)による健康への被害も問題化して、今は良識ある喫煙者が戸外で表立って吸う姿を見かけなくなった。それでもまだ、平気な顔して排煙(路上や建物入り口付近、待ち合場、ドアを開け放ち灰を外へ廃棄しながら車中で吸う等)する人やそれが黙認されている(または被害の声を挙げられない)意識は根強く残っている。

乳幼児を含めた様々な人が行き交う場に灰皿を設置しているコンビニや飲食店、公共施設は無知ながら未だに多いのが現状。他人への深刻な健康被害を考えればそのような場では最早喫煙しない(否。出来ない)のは明白であり、タバコを吸わない他人へ配慮できるのが社会人の資質といえる。それを憚る事無く無視して喫煙するものは煙草に含有する薬物に依存してしまっている場合が多く、その場合の喫煙とは禁断症状から来る「依存物質の摂取行動」と言える。タバコを含めた薬物依存症は医学的に言えば「精神疾患」であり本来は治療が必要な状態である。
「根強く残る」意識とはこのような認識に至っていないことを意味する。

話が少し逸れてしまったが、公共の場(他者がいる空間)で喫煙が許されている(あるいは喫煙がなされる)社会は多くのことを雄弁に語る。特に乳幼児・児童について、人々の社会的な意識をよく窺い知る事ができる。またその人々の「意識」ばかりではなく、インドネシアの場合、タバコとその産業が占める社会構造を見ることで彼らの問題を浮き彫りにもできる。オランダ植民地時代からこのタバコ産業は巨額の富と強固な階級社会の礎を築き続けている。以前に「貪欲な消費者」という言葉を使ったが、その語は一方で広がる格差の中で人々が産業構造の中に消費することで完全に組み込まれた状態でもあり、消費者として盲目的に飼いならされた「人々の群れ」をも意味する。

その因習や習慣に反対する動きも現れているが、富を独占する共同体や社会システムはあまりにも巨大でありそれに対抗するには人々の無知に後押しさえてほとんど無力に等しい。

子どもについて言えば、路上に横たわって物乞いする子どもを多勢見かけるが、大人(親とは限らない)が子どもを利用しそれが一種ビジネスとして生計が成り立っている場合もある。したたかさと意地の汚さを合わせもった人々。物乞いビジネスに育て利用する目的で乳幼児が誘拐されるケースも多い。警察も放置し見て見ぬ振りをする。出産時に死亡する赤児の数も未だに上位を占めるインドネシア。その原因の多くは、例えばへその緒を切る際に使用する刃物や汚水等による傷口から広がった感染症によるもので、治療もままならないまま死亡してしまうケースだ。

巨大な消費市場の国インドネシアで人々が吐き出すゴミの行き先に絡め「人が蔑ろにされて」いると記した。蔑ろにされているのは子ども含めてであり、これは以前に「人命という質量の軽い国情」と記した所以でもある。

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